学部長メッセージ

「人新世」を生き抜くには——未知の「何か」との出会いの場としてのアカデミック共同体

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今日、私たちを取り巻く世界は急激に変化してきています。昨今のグローバル化とよばれる人・モノ・資本や情報の流通は、速度といい質量といい、桁違いです。ICTsの進歩によって、コミュニケーションの形が変わってきており、ポストCOVID時代に、オンラインでできることの幅は確実に広がりました。近年の生成AIの発展は、新たな他者の出現も予感させます。「人新世」と呼ばれる地質学的な単位が注目を集めるように、人間と自然環境との相互作用が大いに問題となってきています。背景と価値観を異にする人々、文物が身近に交錯するようになれば、激しい摩擦や対立は起こるのは必然です。私たちはこの世界をどう生きていったらいいのでしょうか。

哲学者にして人類学者でもある、カメルーン出身のフランシス・B・ニャムンジョ(Francis B. Nyamnjoh, 1961―)は、あらゆる存在は「不完全」であるといいます。「不完全」な人間が、不完全なモノや超自然的な力と向き合い、ともに不完全な世界を構成しているのだというのです。人間はそこで、分断や孤立、あるいは自分自身に潜む、他者を支配したいという誘惑にも抵抗しながら、カコフォニー(不調和)を認識し、それと折衝して折り合い、最終的には利益を互いに分かち合うコンヴィヴィアリティ(conviviality, 一義的には「宴会」のこと)の実現を目指すのだ、とニャムンジョさんは説きます。

ニャムンジョさんの説くところによれば、究極的には、人間として生きていくということは、貸したり借りたりの繰り返しです。永遠に返すことができない借りがあるということを認めることも大切です。人間、自然環境、資源、あるいは先祖たちなどの超自然的な力などに、返せない負債があるのだ、というのです。私たちは現在の自分たちの存在が、あちこちから、さまざまなものをもらった結果であることを忘れがちです。人間はすべて相互につながり、相互に支えあって依存しあっているのです。互酬や贈与、分配と利他の論理が、人間性、社会性の本質の一つであり、実はもっとも根本的な生存戦略であるという考え方もあります。

コロナの時代に、「鬼滅の刃(無限列車編)」という作品が記録的な流行を記録しました。絶対的な力を持つ異質な他者(鬼)への恐怖、他者を支配し、そのエージェンシー(力)をコントロールしようとするような、自己のなかにもある邪悪な欲望をいかに飼いならしていくべきなのか、そうした現代の人々の心にひそむ現代的なテーマをこの作品は大変見事に描き出していました。作品のクライマックスで、重要なキャラクターが亡くなっていくシーンは、大きな衝撃を与えましたが、それは、自分にしか果たせない自分の役割を悟り、役割を果たすことが、世界の秩序を実現することである、ということを説得的に説いてもいました。

コンヴィヴィアリティを実現しようと努力するプロセスは――私は学問の場の多くもそうでなければならないと考えていますが――、どこかリレーに似ています。もらったものは返さないといけない、と思っていても、その方に直接返すことは多くの場合できません。大学とは、そういった返すことのできない「何か」を受け取り、それを別な人に手渡す義務の崇高さとアイロニーを感じる場でもあります。

大学を卒業してからすぐに目に見えて役立つスキルや能力をいかに効率よく身に着けるか、という議論がなされることがあります。間違っているというのではありません。私たちは、そのためのコースも、プログラムもたくさん準備しています。しかし、単純な目的と手段をセットで考える、テレオロジーに堕してしまうと底の浅い単純な考え方になってしまうので注意が必要です。

私たちは、もっと遠い未来を見据えていますし、人間はもっと複雑で多面的なものです。すぐ役に立つことは、すぐに役に立たなくなるのです。私たちは、みなさんのキャリアに直接結びつくことももちろん提供したいと思いますが、もっと切実に考えているのは、これまでは頼りにしていたものごとが役に立たなくなったときに、みなさんを支えてくれる「誰か」や「何か」との予想していなかった出会いの場をつくりだしたい、ということです。それは、ある人にとってそれは外国語の言語能力かもしれず、留学先で出会った、故郷から遠く離れた価値観の違う友人たちとのネットワークやコミュニケーションの記憶かもしれず、あるいはたまたま教室や図書館の片隅で出会った一片の詩であるかもしれません。私たちが提供したいのは、目的がはっきりした道具――スキルももちろんですが、むしろ、みなさんの今後の未来を支える「何か」との出会いを提供する環境のほうなのです。おおげさに言えば「生」を劇的に変容させる何かとの「出会い」の場です。

ここではその場が雑多なものであることが、積極的な意味を持ってきます。この場合、目的に合致した既存の道具はないのが普通です。「生」にはふつう単純な目的など設定できず、「効率」よく生きるスキルなどどこにもありません。「効率」とは、ゴールや成果がわかっているときに問うことができることで、人間の人生にそれらを設定することはほとんどできません。

生きていくためには、手持ちのものを組み合わせて、「ブリコラージュ」にも似た作業が必要なのです。ブリコラージュとは「ありあわせ」でなんとかやりくりする、ということです。道具と材料はいずれも、何かの目的で集められたものではなく、いろいろな機会にストックが更新され、増加し、また前にものを作ったり壊したりしたときのものが集まっているだけです。ひとはその操作に道具が適応するかどうかとにかくやってみるのですが、必要と思えるならいつでもためらうことなく道具を取りかえるし、あるいは、起源や形態が異質なものであってもためらうことなく複数の道具を同時に試みるしかないのです。

2017年に創設された神戸大学国際人間科学部は、深い人間理解と他者との共感をうたっています。他者と共存してお互いに協働しながら、グローバルな課題と向き合おうとする志のもとに設計されています。それは、前述した困難から未来を切り開き、コンヴィヴィアリティを達成しようとするブリコラージュ的な営みと、それを支える「何か」との出会いを提供することができる場所になってくれる可能性があると思っています。しかし、主役は、みなさん一人ひとりです。みなさんが、この学部で、それぞれの「生」を支える「何か」、と出会い、ご自分の役割を見出されることができることを、心から祈念しています。

梅屋 潔 教授
国際人間科学部長